2005年06月16日

『近代能楽集 卒塔婆小町・弱法師』

蜷川幸雄演出による『近代能楽集 卒塔婆小町・弱法師』を観た。
三島先生が“近代”と銘打っているように、これは能の舞台を再現したものではない。能の精神を持って展開される現代劇である(じっさいにはちょっと昔だが)。 
僕は能楽師の友人がいても、正直なところ、能には暗い。大学院の時に受講していた堂本正樹先生の講義の記憶が唯一の頼りだ。「かつて美しかったことを語る」と言うテーマがあった。堂本先生が話されていたそれがとても印象的で、今回は一番目の『卒塔婆小町』がズバリそれであった。 
だから藤原竜也と夏木マリの出演で注目度が高い『弱法師』より、『卒塔婆小町』の方が内容やテーマ性に入りやすかった。壤晴彦演じる老婆はまさに圧巻。 
 
二番目の『弱法師』であるが、僕はどうにもイライラばかりが募ってしまったのだ。 
と言うのも、この日は平日の昼間で、客層は90%が20-30代女性だった。聞こえてくる会話から、彼女たちは明らかに藤原竜也目当てだった。芸能だし、それが悪いとは言わないが、お目当ての出ない『卒塔婆小町』の上演中に、彼女たちは居眠りをしたりお喋りをしていた。全くの興醒めであった。そして二番目の『弱法師』の幕が上がり、藤原竜也が登場すると雰囲気が一変。黄色い声が上がりざわつく。が、独白が延々と続くとまた居眠りが始まる。そして、クライマックスで、彼が上半身裸になって汗だくで叫び始めると、いよいよ彼女たちは興奮し始め、カーテンコールではスタンディング・オヴェーションになったのだ。僕はこれが耐えられなかった。大好きな三島文学に、世界の蜷川の演出を楽しみに足を運んだのに……。 
そこで僕が思った。この女性客の興奮するきっかけとなる、藤原竜也の裸と汗は必要なのかと。それは観客の注意を惹き付けるための過剰演出ではないのかと、どうも得心がいかないのである。 
能は削ぎ落としの美学である。『卒塔婆小町』はまさにその精神で演出されていたからこそ、とても深い感動に浸った。しかしどうもこの藤原竜也の裸と汗、この一点だけがそれに反しているように思えてならなかったのである。そしてそれが強烈に印象に残ってしまった。


posted by 山崎達璽 at 00:00| 観劇記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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