2011年03月09日

矢太郎の目指した浮世絵のジャンル

先日の東京プレミアは上映前のトークショーとなったため、「鑑賞の手引き」のような内容を目指した。改めて感想を聞くと、「矢太郎の目指した浮世絵のジャンル」についての反応がかなり多いようで、自分としての備忘録の意味合いも含めてここに書いておこうと思う。

これは脚本段階の話。
矢代静一の『宮城野』執筆当時は、劇界の孤児ともいうべき厳しい状況だった。「本当に書きたい戯曲」が書けなくて、生活のためにやむを得ずラジオドラマなんかを書いて食いつないでいたとか。
矢代はその境遇を矢太郎に投影していて、矢太郎も「本当に描きたい絵」が描けなくて、生活のために写楽の役者絵を描いている。ゆえに鬱屈しているわけだ。

では、矢太郎が「本当に描きたい絵」とはなんだろうか?

原作にはその答えはない。しかし、映像表現である以上は具体的な描写が必要であろうと悩む……
揚げ句、矢太郎は元々は「肉筆美人絵」を目指していたという結論が出る。

美人絵で有名な鈴木春信や喜多川歌麿は、役者絵を描くことをことごとく馬鹿にしている。
確かに考えてみればそれは容易で、美人絵、特に肉筆画であれば、その芸術性や希少価値は圧倒的に高い。対して、役者絵、写楽のような浮世絵木版画はタレントのグラビアのようなもので、大衆の大量消費文化である。芸術性や希少価値とは次元を異にしているのは明らか。

そんな考証を踏まえると、今はしょうがなく木版画の役者絵(の下絵)を描かされているが、矢太郎が本当に描きたいのは、アート性の強い「肉筆美人絵」だという設定が生まれてくる。

矢太郎はそもそも役者絵なんぞは馬鹿にしている。にもかかわらず、矢太郎の美人絵は残らず、写楽名義の役者絵は歴史的傑作として輝き続けているこの皮肉……。
posted by 山崎達璽 at 18:40| 映画『宮城野』 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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